松の木
statement
松の木は、様々な曲線を持ち、人のしなやかな動きを思わせる。
人と変わらず、それぞれに性格があるように感じた。
広い空間に決められたように置かれたカラーコーン。
幹を自由自在に広げる松の木は、今にも動き出しそうな様子だった。
人の姿に似た松の木は、日常の風景に馴染むように立っている。
焦点
statement
この写真を見てくださいと言われたとき、何に焦点を定めるのか。
主観では、全体的な色合いやバランスを見る人もいれば、個人の気になる対象を見る人もいる。
第三者が誘導するために他者の視線をある対象に引き寄せることもあれば、無作為な対象から何かを想像させることもある。
見る側が何に焦点を定めるかによって、様々な捉え方を可能にしている。
薔薇
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秋の爽やかな日差しを受ける通り。
見なれた煉瓦塀が通り沿いに続いている。
赤い花に気付き、誘われるように歩を進めた。
幾筋かに伸びた茎の先には大輪の薔薇があり、私は不意に現れた光景を写真に収めてみた。
壁から浮き出るような薔薇とその影、規則的に積み上げられた煉瓦で構成された画は、初めて目にしたかのような印象を与え、惹かれるままにシャッターを切った。
日に照らされた薔薇は日常の小さな幸せを感じさせ、私はそれを眺めながらまた少し歩き始めた。
架空の物件
statement
2枚の同じ対象を写したマンションがある。さて、どちらに住みたいか。
白と黒の世界は時間が進んでいる感覚は薄いが、だからといって止まっているわけでもない。目に見える物はとてもシンプルで、あらゆる物事が鮮明になる。シンプルな暮らしを求める人には、理想的な物件と言えるだろう。
一方、色彩は重要で人の興味や関心を引き、活力を湧かせるために必要な要素だ。
好みの色であれば視線の先に直ぐマンションが見えて、暮らしのイメージが自然と湧いてくるだろう。ただし、色彩が常にマンションを魅力的なものにするとも言いきれない。何故なら、色彩は移ろいやすいものだから。
どちらも同じ対象を写したマンションだが、あくまで架空の物件である。
9月
statement
まだ、夏の熱気を感じさせる9月の白昼。
森閑とした教会に入ると照明はなく、窓から差し込む光が広い礼拝堂を明るく照らしていた。
通路を歩いていると、入り口の小さな祭壇画が目に入り、近くで見るために絵の前に進んだ。
入り口のすぐ横にはステンドグラスの窓があり、イエス様が描かれていることに気づいた私は、また元の位置に戻り、そこから改めて祭壇画を見ることにした。
聖母画の収められていた額には、明るい光と共にステンドグラスのイエス様が映り込み、穏やかな表情を見せていた。
会場
statement
奏でる音が響き渡る。演者は真剣な表情で演奏を続ける。
クライマックスを迎え、会場には笑顔が溢れる。
今日の演奏は沢山の著名人を前に緊張した。
今日は素晴らしい日だ。
会場に並ぶポートレートを目にし、そう思うのだった。
Sooting Date: September 6, 2022
断片
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頭の中ふと入ってきた。
何かの切れ端みたいだ。
黄色い花は優しげにこちらをむいている。
そのつぼみは暖かい日差しを待っている様子だ。そして周りは水が滲んだかのようにはっきりしない。
メッセージのように現れる断片。
それは続きのない断片である。
私は完成した画を知るために、頭の中に入ってきたイメージの先を描くことにする。
不鮮明な写真
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写真にとって不鮮明とは何か特定する意図や対象になる存在がないこと。
その場合、どんな被写体を写したとしても不鮮明になる。
私はあえて不鮮明な写真を撮ることにしようと思う。
身の回りのありふれたものを使い、さらに不鮮明に仕上げることで現実では捉えることのできない、非常にシンプルで印象的な色彩が表れる。
不鮮明な写真の中には無限の美しさがあり、その中にしか感じることができない色を私は体現することができる。
人は興味を持ってこれを写真として認識するだろうか。
視界の先に入ってくるのは、まだ見ぬ美しさを持つ不鮮明な写真。
one afternoon
statement
ある日の午後。
見渡す限り誰もいなかった。
それでも心の中では感じていた。
優雅にくつろいでいる存在を。
向こうは私たちのことなんて気にもせずに談笑しているかもしれない。
ここはとても静かだから周りを気にすることもない。
そして私たちを常に歓迎している。